テーマ:奥の細道

奥の細道紀行 40. 大垣 ・ 旅を終えて

・ 敦賀~大垣  (2014. 12. 4~5.)  敦賀から大垣までは決して至近の距離ではないのだが、芭蕉がどこを通って大垣まで辿り着いたかは、今でも謎とされている。私たちは、長浜を経由して大垣まで、芭蕉も歩いたと思われる場所を辿って行った。  敦賀・色の浜を後にして、先ず最初に立寄ったのは福井・滋賀の県境にある西村家である。…
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奥の細道紀行 39. 敦賀~色の浜

・ 敦賀  (2014. 12. 4.)  芭蕉が敦賀に着いたのは、仲秋の名月の前日であった。「おくのほそ道」には、『十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む』とある。宿は出雲屋であった。山中温泉で芭蕉と別れた曾良が、先に敦賀に着いて手配している。「曾良随行日記」に『十日快晴・・・出雲や弥市良ヘ尋。金子一両、翁へ可渡之旨申頼、預置也』と…
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奥の細道紀行 38. 福井~木ノ芽峠

・ 福井  (2014. 11. 30.)  芭蕉は、永平寺で午後の一時を過ごし、夕方になってから福井の町へ向かった。「おくのほそ道」には『福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし』とある。この永平寺から福井までが、奥の細道で芭蕉が一人で旅をした唯一の場所である。芭蕉は、西行のような孤独な一人旅を愛する人…
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奥の細道紀行 37. 全昌寺~永平寺

・ 全昌寺  (2014. 11. 29.)  八月五日(陽暦9月18日)山中温泉で芭蕉と別れた曾良は全昌寺で宿泊して、七日に出立している。芭蕉が小松で生駒萬子にあった後『大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊』ったのは、『曾良も前の夜この寺に泊まりて』という「おくのほそ道」の記述によれば八日の夜ということになる。  全昌寺は曹洞宗の…
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奥の細道紀行 36. 山中

・ 山中  (2014. 11. 29~30.)  七月二十七日(陽暦9月10日)小松から山中温泉に到着した芭蕉の、山中温泉滞在中の動静を「曾良随行日記」は次のように記載している。 『廿七日 ・・・山中ニ申ノ下刻着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ  北ヘ夕立通ル。  廿八日 快晴。夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。夜にニ…
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奥の細道紀行 35. 那谷

・ 那谷  (2014. 11. 29.)  芭蕉は、七月二十七日(陽暦9月10日)小松から山中温泉に行き、八月五日(陽暦9月18日)に曾良と別れ、北枝を伴って再び小松に赴く途中で那谷寺に詣でた。「曾良随行日記」には、『五日 曇。昼時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小松ニ、生駒万子為出会也』とある。生駒万子は本名重信、禄高千石の加…
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奥の細道紀行 34. 小松

・ 小松  (2014. 11. 29・30.)  芭蕉は、七月二十四日(陽暦9月7日)盛大な見送りを受けて金沢を立ち、小松で近江屋という旅宿に泊まった。金沢の北枝も同道した。翌日出立しようとしたが、小松の人々に引き留められ、山王宮(日吉神社)の神主・藤井伊豆宅に宿泊して、句会を催した。ここで詠んだ発句が「おくのほそ道」に記載され…
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奥の細道紀行 33. 金沢

・ 金沢  (2014. 11. 28.)  七月十五日(陽暦8月29日)高岡をたった芭蕉は、埴生八幡宮を拝み、倶利伽羅峠を越えて加賀の国に入り、『未ノ中刻』(午後3時)、加賀百万石・北国第一の城下町金沢に到着した。「曾良随行日記」十五日の項には、『京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ。良刻、竹雀・牧童同道シテ来テ談。一笑、去十二…
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奥の細道紀行 32. 奈呉の浦~倶利伽羅峠

・ 奈呉の浦  (2014. 10. 26.)  滑川に一泊した芭蕉は、富山へは寄らず、神通川等を渡り放生津に入った。「おくのほそ道」には『黒部四十八が瀬とかや、数知らぬ川を渡りて、那古といふ浦に出づ』と記している。  奈呉(那古)の浦は放生津潟の古称である。天平18年(746)から5年間、越中国守として在任した大伴家持が、奈呉…
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奥の細道紀行 31. 市振~滑川

・ 市振  (2014. 10. 25.)  市振の街並みに入る所に「海道の松」という大木が聳えている。解説板に曰く、「昔の北陸道は、この海道の松から、海岸へ降りて、西からの旅人は、いよいよ寄せくる波におびえながら、天下の嶮親不知子不知を東へ越えることになったのである。また西へ上る旅人は10キロ余の浪間を、命がけでかいくぐり、海道…
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奥の細道紀行 30. 能生~親不知

・ 能生  (2014. 10. 25.)  芭蕉は高田を出て加賀街道(北国街道)から五知国分寺・居多神社を参拝、名立に寄る予定だったが、紹介状が届いてないため、歩を進めて能生に夕刻到着した。「曾良随行日記」には『十一日快晴。巳ノ下剋、高田ヲ立。五知・居多ヲ拝。名立ハ状不届、直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。』と記している…
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奥の細道紀行 29. 直江津~高田

・ 直江津  (2014. 10. 24.)  出雲崎に一泊した芭蕉は、七月五日(陽暦8月19日)柏崎を経て鉢崎に泊まり、翌六日、今崎(直江津)に到着した。柏崎では宿泊予定地でトラブル(前回No.28参照)があったが、直江津ではどうであったか。 「曽良随行日記」によると『聴信寺ヘ弥三郎状届。忌中ノ由ニテ強而不止、出。石井善次良聞テ…
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奥の細道紀行 28. 出雲崎~柏崎

・ 出雲崎  (2014. 9. 28.)  出雲崎は、芭蕉来遊当時は、佐渡ヶ島への渡船場として栄えた港町である。北国街道に沿って発展し、「妻入り」の家が、日本一の長さの3.6キロにも連なって、今も残っている。「うなぎの寝所」のような、間口が狭く奥行きの長い「妻入り」の構造は、江戸時代に越後一の人口密度を誇った繁栄の名残りである。…
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奥の細道紀行 27. 新潟~弥彦

・ 新潟  (2014. 9. 27.)  新潟に入った芭蕉は、ちょうど港祭りの最中だったこともあって追込宿しかなく、大工源七の母の家に情けにより泊めてもらった。そして翌日には早々と新潟を出立している。何故か芭蕉は新潟の地にあまり良い印象を持たなかったようである。疲れている芭蕉は馬で行きたかっただろうが、『馬高ク、無用之由、源七指…
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奥の細道紀行 26. 温海~村上

・ 温海  (2014. 8. 30.)  不玉ら大勢の俳人に送られて酒田を立った芭蕉は、大山を経て温海に着いた。この間の海岸線は岩組が美しい所である。「曽良随行日記」には『三瀬ヨリ温海ヘ三リ半。此内、小波渡・大波渡・潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有』と記されている。私たちはこれらを車窓から眺めながら移動し、塩俵岩の所…
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奥の細道紀行 25. 象潟

・ 象潟  (2014. 8. 30.)  「奥の細道」の西の北限である象潟は、芭蕉たちが訪れたころは、『俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし』と本文にあるように、海上に浮かんでいた群島で、奥州の名峰鳥海山を背景に松の緑が点在する風景は、筆舌につくしがたいものだったようである。その後、文化元年(180…
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奥の細道紀行 24. 鶴岡~酒田

・ 鶴岡  (2014. 8. 29.)  芭蕉は一週間滞在した羽黒山を下って、酒井十四万石の城下町鶴岡に入り長山重行宅に三泊した。重行は身分も教養もある庄内藩士で、江戸在勤中に芭蕉庵を訪ねて入門した人である。  長山宅跡は住宅街の一角にあり、現在空き地になっていて「芭蕉滞留の地」碑とこの地で巻かれた歌仙発句の碑が建っている。「…
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奥の細道紀行 23. 出羽三山

・ 羽黒山  (2014. 7. 10.)  出羽三山というのは、羽黒山(436m)・月山(1980m)・湯殿山(1504m)の総称である。いま羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山の中腹には湯殿山神社がそれぞれ鎮座するが、月山・湯殿山は積雪により、冬季間参拝が不可能なため、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して、三神合祭殿…
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奥の細道紀行 22. 本合海~最上川

・ 本合海  (2014. 7. 9.)  六月三日(陽暦7月19日)、好天に恵まれて新庄を立った芭蕉は、本合海より最上川下りの船客となり、清川で上陸、羽黒山麓に向かったのである。。本合海は、「義経記」によれば平泉へ逃れる義経主従が、羽黒山から清川へ出、最上川を船で遡り、上陸した場所である。芭蕉がそこから逆に船で下ったのは、義経を…
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奥の細道紀行 21. 大石田~新庄

・ 大石田  (2014. 7. 9.)  「おくのほそ道」に『最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ』とあるように、芭蕉は最上川を下るため船待ちしようとして立石寺から大石田に出て、高野一栄宅に三日間滞在した。芭蕉来訪当時の大石田は酒田へ下る川船の発着所(河港)として栄えた所で、米や紅花などが積み出しされた。  当時、俳諧の…
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奥の細道 みちのく編

 奥の細道を訪ねる旅もようやく前半を終了しましので、前回の「旅立ち編」に続いて、今回は須賀川から平泉までを「みちのく編」としてまとめてみました。ご覧いただければ幸いです。
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奥の細道紀行 20. 医王寺~国見

・ 医王寺  (2014. 6. 5.)  医王寺は、源義経が鎌倉に駆けつけるときに家臣となって従い、屋島と京堀川で討ち死にした佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺である。のち、兄頼朝に追われた義経は、平泉に逃れる途中、この寺に立ち寄ったといわれ、弁慶の笈などゆかりの品が宝物館に収納されている。  「おくのほそ道」で、『佐藤庄司が旧跡は・…
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奥の細道紀行 19. 安積山~信夫文知摺石

◎今回と次回 (No.19 & No.20) は、2月に予定していたが大雪のため中止になっていた行程で、奥の細道の順路としては「No.9 鐙摺~武隈の松」 の前に遡ります.。 ・ 安積山  (2014. 6. 4.)  「おくのほそ道」に『檜皮の宿を離れて、浅香山あり。道より近し。このあたり沼多し』とある。行ってみると、浅香…
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奥の細道紀行 18. 尾花沢~立石寺

  ・ 尾花沢  (2014. 5. 16.)   山刀伐峠を越えて尾花沢に入った芭蕉は鈴木清風を訪れ、そのもてなしを受けてくつろいだ。「おくのほそ道」に『尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども志卑しからず』と描かれている清風は、この地方の特産品である紅花の問屋で、芭蕉とは江戸で知り合った俳人である。  清風宅跡は現…
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奥の細道紀行 17. 尿前の関~山刀伐峠

・ 尿前の関  (2014. 5. 15.)  いよいよ芭蕉は進路を西に向けて出羽の国に向かう。「おくのほそ道」では『小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす』と記している。  小黒崎・みづの小島(美豆の小島)は、古今集・続古今集などで詠われた歌枕である。江合川の広い河原に向かって、古今集…
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奥の細道紀行 16. 平泉(続)~岩出山

・ 平泉  (続き)  中尊寺では先ず金色堂を見物した。私はどうゆう訳か今まで機会がなく、この歳になって平泉は初めてである。この金色堂を今まで見たことがなかったのだ。今回の奥の細道巡りを始めた動機も、金色堂を見たいことが第一であった。それだけに少年のような期待感でこの瞬間を迎えた。  期待以上に素晴らしいものだった。全体が金箔に…
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奥の細道紀行 15. 一関~平泉

・ 一関  (2014. 5. 14.)  芭蕉が登米を発って一関に入った日は、ひどい大雨だった。「曽良随行日記」には、『十二日曇。戸今を立。・・・・・一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス』とある。 一関市内の「かっぱ崖」には幾つかの標識が建っている。このあたりで芭蕉は合羽も染み透るほどの豪雨に降られたらしい。 芭蕉は、地主町の磐…
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奥の細道紀行 14. 石巻~登米

・ 石巻  (2014. 4. 17~18.)  松島を発って石巻の日和山に向かう途中、石巻湾に面した東松島市、石巻市の津波被災地を通り、大震災の凄さ、恐ろしさを目の当たりにした。震災前は立派な市街地だった地区が、今は瓦礫などは整理されて一面の更地に化し、一階が破壊されたままの一軒家や柱だけになった寺がポツン立っていたりする。その…
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奥の細道紀行 13. 松島、瑞巌寺

・ 松島  (2014. 4. 16~17.)  「おくのほそ道」の冒頭の一節で、『松島の月まづ心にかかりて』と述べているように、芭蕉は深い期待をもって松島を訪れた。そして『そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹ばふ・・・・その気色えう然として、美人の顔を粧ふ』と松島の風景を絶賛した名文を記しているが、あまりの感動で俳句を詠め…
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奥の細道紀行 12. 塩竈

・ 塩竈  (2014. 4. 16.)  塩竈神社は陸奥国一宮として古くから崇敬され、仙台藩主伊達家によって再興整備されてきた。芭蕉はここを詣でて、「おくのほそ道」に『かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ・・・・いと尊けれ』と崇敬と讃嘆の気持ちを記している。  「陸奥国一宮」の扁額を掲げた鳥居をくぐると、長く…
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