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みんなの「奥の細道」ブログ

タイトル 日 時
奥の細道紀行 40. 大垣 ・ 旅を終えて
奥の細道紀行 40. 大垣 ・ 旅を終えて ・ 敦賀〜大垣  (2014. 12. 4〜5.)  敦賀から大垣までは決して至近の距離ではないのだが、芭蕉がどこを通って大垣まで辿り着いたかは、今でも謎とされている。私たちは、長浜を経由して大垣まで、芭蕉も歩いたと思われる場所を辿って行った。  敦賀・色の浜を後にして、先ず最初に立寄ったのは福井・滋賀の県境にある西村家である。西村家には「おくのほそ道」素龍清書本が残る。表紙に貼った題簽だけは芭蕉の直筆である素龍本は、芭蕉没後、遺言により弟子の向井去来に渡り、その後幾人かのもとを経て、敦... ...続きを見る

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2015/02/11 12:37
奥の細道紀行 39. 敦賀〜色の浜
奥の細道紀行 39. 敦賀〜色の浜 ・ 敦賀  (2014. 12. 4.)  芭蕉が敦賀に着いたのは、仲秋の名月の前日であった。「おくのほそ道」には、『十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む』とある。宿は出雲屋であった。山中温泉で芭蕉と別れた曾良が、先に敦賀に着いて手配している。「曾良随行日記」に『十日快晴・・・出雲や弥市良ヘ尋。金子一両、翁へ可渡之旨申頼、預置也』とある。出雲屋の跡は現在レストランになっており、道路脇に「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の標柱が建っている。  芭蕉が着いた十四日の夜は晴れていた。明日の仲秋の名月も晴れる... ...続きを見る

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2015/01/29 16:39
奥の細道紀行 38. 福井〜木ノ芽峠
奥の細道紀行 38. 福井〜木ノ芽峠 ・ 福井  (2014. 11. 30.)  芭蕉は、永平寺で午後の一時を過ごし、夕方になってから福井の町へ向かった。「おくのほそ道」には『福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし』とある。この永平寺から福井までが、奥の細道で芭蕉が一人で旅をした唯一の場所である。芭蕉は、西行のような孤独な一人旅を愛する人ではなかった。『黄昏の道たどたどし』という表現に、芭蕉の心細さが滲み出ているように思う。  芭蕉は福井で、十年前に江戸に芭蕉を訪ねてきた『等栽といふ古き隠士』を... ...続きを見る

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2015/01/26 17:51
奥の細道紀行 37. 全昌寺〜永平寺
奥の細道紀行 37. 全昌寺〜永平寺 ・ 全昌寺  (2014. 11. 29.)  八月五日(陽暦9月18日)山中温泉で芭蕉と別れた曾良は全昌寺で宿泊して、七日に出立している。芭蕉が小松で生駒萬子にあった後『大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊』ったのは、『曾良も前の夜この寺に泊まりて』という「おくのほそ道」の記述によれば八日の夜ということになる。  全昌寺は曹洞宗の寺院で、大聖寺城主山口氏の菩提寺であり、芭蕉が山中温泉で宿泊した和泉屋の菩提寺でもあった。芭蕉も曾良も和泉屋の紹介で全昌寺に宿泊したものと思われる。  曾良はこ... ...続きを見る

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2015/01/23 18:57
奥の細道紀行 36. 山中
奥の細道紀行 36. 山中 ・ 山中  (2014. 11. 29〜30.)  七月二十七日(陽暦9月10日)小松から山中温泉に到着した芭蕉の、山中温泉滞在中の動静を「曾良随行日記」は次のように記載している。 『廿七日 ・・・山中ニ申ノ下刻着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ  北ヘ夕立通ル。  廿八日 快晴。夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。夜にニ入、雨降ル。  廿九日 快晴。道明淵、予、不往。  晦  日 快晴。道明が淵。  八月朔日 快晴。黒谷橋ヘ行』 二日・三日・四日は天候のことのみを記してお... ...続きを見る

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2015/01/15 17:18
奥の細道紀行 35. 那谷
奥の細道紀行 35. 那谷 ・ 那谷  (2014. 11. 29.)  芭蕉は、七月二十七日(陽暦9月10日)小松から山中温泉に行き、八月五日(陽暦9月18日)に曾良と別れ、北枝を伴って再び小松に赴く途中で那谷寺に詣でた。「曾良随行日記」には、『五日 曇。昼時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小松ニ、生駒万子為出会也』とある。生駒万子は本名重信、禄高千石の加賀藩士である。「おくのほそ道」の文章は小松→那谷寺→山中温泉という常識的な道順に従って配列してあるが、旅の事実そのままの記述ではない。  那谷寺は高野山真言宗の... ...続きを見る

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2015/01/13 15:31
奥の細道紀行 34. 小松
奥の細道紀行 34. 小松 ・ 小松  (2014. 11. 29・30.)  芭蕉は、七月二十四日(陽暦9月7日)盛大な見送りを受けて金沢を立ち、小松で近江屋という旅宿に泊まった。金沢の北枝も同道した。翌日出立しようとしたが、小松の人々に引き留められ、山王宮(日吉神社)の神主・藤井伊豆宅に宿泊して、句会を催した。ここで詠んだ発句が「おくのほそ道」に記載された「しほらしき名や小松吹く萩薄」である。小松滞在中、芭蕉は立松寺(建聖寺)・諏訪宮などを訪れ、そして『多田八幡ヘ詣テ真(実)盛が甲冑・木曽願書ヲ拝』んだ(曽良随行... ...続きを見る

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2014/12/18 22:33
奥の細道紀行 33. 金沢
奥の細道紀行 33. 金沢 ・ 金沢  (2014. 11. 28.)  七月十五日(陽暦8月29日)高岡をたった芭蕉は、埴生八幡宮を拝み、倶利伽羅峠を越えて加賀の国に入り、『未ノ中刻』(午後3時)、加賀百万石・北国第一の城下町金沢に到着した。「曾良随行日記」十五日の項には、『京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ。良刻、竹雀・牧童同道シテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由』とあって、芭蕉が小杉一笑の死を知らず、金沢に着いたら第一番にこの人を訪ねようとしていたことが分かる。それだけに、芭蕉の驚きと悲しみは深かったと思わ... ...続きを見る

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2014/12/16 17:06
奥の細道紀行 32. 奈呉の浦〜倶利伽羅峠
奥の細道紀行 32. 奈呉の浦〜倶利伽羅峠 ・ 奈呉の浦  (2014. 10. 26.)  滑川に一泊した芭蕉は、富山へは寄らず、神通川等を渡り放生津に入った。「おくのほそ道」には『黒部四十八が瀬とかや、数知らぬ川を渡りて、那古といふ浦に出づ』と記している。  奈呉(那古)の浦は放生津潟の古称である。天平18年(746)から5年間、越中国守として在任した大伴家持が、奈呉の浦の風景を好んで和歌を詠み、以来奈呉の浦は万葉歌枕の名勝地となった。  放生津八幡宮は、大伴家持が宇佐八幡宮を勧請して奈呉八幡宮と称したのが始まりである。社殿... ...続きを見る

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2014/11/25 23:12
奥の細道紀行 31. 市振〜滑川
奥の細道紀行 31. 市振〜滑川 ・ 市振  (2014. 10. 25.)  市振の街並みに入る所に「海道の松」という大木が聳えている。解説板に曰く、「昔の北陸道は、この海道の松から、海岸へ降りて、西からの旅人は、いよいよ寄せくる波におびえながら、天下の嶮親不知子不知を東へ越えることになったのである。また西へ上る旅人は10キロ余の浪間を、命がけでかいくぐり、海道の松にたどりついてようやくホッとし、市振の宿に入ったのである。・・・」  海道の松から街を西に少し行くと、芭蕉が宿泊した桔梗屋跡がある。「一つ家に遊女もねたり萩... ...続きを見る

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2014/11/22 23:20
奥の細道紀行 30. 能生〜親不知
奥の細道紀行 30. 能生〜親不知 ・ 能生  (2014. 10. 25.)  芭蕉は高田を出て加賀街道(北国街道)から五知国分寺・居多神社を参拝、名立に寄る予定だったが、紹介状が届いてないため、歩を進めて能生に夕刻到着した。「曾良随行日記」には『十一日快晴。巳ノ下剋、高田ヲ立。五知・居多ヲ拝。名立ハ状不届、直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。』と記している。居多神社は五知国分寺(前回No.29.記載)の隣にある延喜式神名帳にも名を残す古社で、越後一の宮である。  私たちは能生の街に入って先ず芭蕉が宿泊した旅館玉や... ...続きを見る

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2014/11/21 14:54
奥の細道紀行 29. 直江津〜高田
奥の細道紀行 29. 直江津〜高田 ・ 直江津  (2014. 10. 24.)  出雲崎に一泊した芭蕉は、七月五日(陽暦8月19日)柏崎を経て鉢崎に泊まり、翌六日、今崎(直江津)に到着した。柏崎では宿泊予定地でトラブル(前回No.28参照)があったが、直江津ではどうであったか。 「曽良随行日記」によると『聴信寺ヘ弥三郎状届。忌中ノ由ニテ強而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。・・・・』という次第で、前日ほどではなかったが、若干のトラブルがあったようである。 ... ...続きを見る

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2014/11/15 16:17
奥の細道紀行 28. 出雲崎〜柏崎
奥の細道紀行 28. 出雲崎〜柏崎 ・ 出雲崎  (2014. 9. 28.)  出雲崎は、芭蕉来遊当時は、佐渡ヶ島への渡船場として栄えた港町である。北国街道に沿って発展し、「妻入り」の家が、日本一の長さの3.6キロにも連なって、今も残っている。「うなぎの寝所」のような、間口が狭く奥行きの長い「妻入り」の構造は、江戸時代に越後一の人口密度を誇った繁栄の名残りである。  芭蕉と曾良は、鼠ヶ関を越えて以後、村上・新潟・弥彦と日数を重ねて出雲崎に入ったわけだが、「おくのほそ道」本文には『暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさ... ...続きを見る

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2014/10/08 21:21
奥の細道紀行 27. 新潟〜弥彦
奥の細道紀行 27. 新潟〜弥彦 ・ 新潟  (2014. 9. 27.)  新潟に入った芭蕉は、ちょうど港祭りの最中だったこともあって追込宿しかなく、大工源七の母の家に情けにより泊めてもらった。そして翌日には早々と新潟を出立している。何故か芭蕉は新潟の地にあまり良い印象を持たなかったようである。疲れている芭蕉は馬で行きたかっただろうが、『馬高ク、無用之由、源七指図ニテ、歩行ス』(曽良随行日記) と歩いて行った。  私たちは新潟市内で、芭蕉句碑「浮身塚」がある船江神社・「芭蕉翁蓑塚」がある崇現寺・芭蕉堂と蓑塚がある護国神... ...続きを見る

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2014/10/06 14:50
奥の細道紀行 26. 温海〜村上
奥の細道紀行 26. 温海〜村上 ・ 温海  (2014. 8. 30.)  不玉ら大勢の俳人に送られて酒田を立った芭蕉は、大山を経て温海に着いた。この間の海岸線は岩組が美しい所である。「曽良随行日記」には『三瀬ヨリ温海ヘ三リ半。此内、小波渡・大波渡・潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有』と記されている。私たちはこれらを車窓から眺めながら移動し、塩俵岩の所で小休止した。塩俵岩は割れ目が斜めに作用したもので、俵を積み重ねたように見えることからこの名がある。ここに海を背にして大きな芭蕉句碑がそそり立っている。     ... ...続きを見る

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2014/09/20 17:16
奥の細道紀行 25. 象潟
奥の細道紀行 25. 象潟 ・ 象潟  (2014. 8. 30.)  「奥の細道」の西の北限である象潟は、芭蕉たちが訪れたころは、『俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし』と本文にあるように、海上に浮かんでいた群島で、奥州の名峰鳥海山を背景に松の緑が点在する風景は、筆舌につくしがたいものだったようである。その後、文化元年(1804) の大地震で海底が隆起して陸地に変わってしまったが、田圃のそこここにある島々は松の緑を繁らせて、現在でも八十八潟、九十九島の面影を残している。  『先ず能因... ...続きを見る

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2014/09/17 17:29
奥の細道紀行 24. 鶴岡〜酒田
奥の細道紀行 24. 鶴岡〜酒田 ・ 鶴岡  (2014. 8. 29.)  芭蕉は一週間滞在した羽黒山を下って、酒井十四万石の城下町鶴岡に入り長山重行宅に三泊した。重行は身分も教養もある庄内藩士で、江戸在勤中に芭蕉庵を訪ねて入門した人である。  長山宅跡は住宅街の一角にあり、現在空き地になっていて「芭蕉滞留の地」碑とこの地で巻かれた歌仙発句の碑が建っている。「曽良随行日記」によれば、芭蕉は出羽三山詣での疲労が相当たまっていたらしく、この「めづらしや」四吟歌仙は巻かれるのに三日掛かっている。            「めづ... ...続きを見る

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2014/09/14 16:52
奥の細道紀行 23. 出羽三山
奥の細道紀行 23. 出羽三山 ・ 羽黒山  (2014. 7. 10.)  出羽三山というのは、羽黒山(436m)・月山(1980m)・湯殿山(1504m)の総称である。いま羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山の中腹には湯殿山神社がそれぞれ鎮座するが、月山・湯殿山は積雪により、冬季間参拝が不可能なため、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して、三神合祭殿と称している。 最上川を船で下った芭蕉は、羽黒山麓の手向村に近藤左吉(呂丸)を訪れ、その案内で別当代会覚に閲した。そして南谷の別院に8日間滞在し、『有難や雪をかほ... ...続きを見る

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2014/08/02 16:16
奥の細道紀行 22. 本合海〜最上川
奥の細道紀行 22. 本合海〜最上川 ・ 本合海  (2014. 7. 9.)  六月三日(陽暦7月19日)、好天に恵まれて新庄を立った芭蕉は、本合海より最上川下りの船客となり、清川で上陸、羽黒山麓に向かったのである。。本合海は、「義経記」によれば平泉へ逃れる義経主従が、羽黒山から清川へ出、最上川を船で遡り、上陸した場所である。芭蕉がそこから逆に船で下ったのは、義経を敬愛する芭蕉の「奥の細道」にかける念願だったのかも知れない。   本合海には「史跡芭蕉乗船之地」の標柱が建てられ、傍らに芭蕉・曾良の旅姿像がある(このページトッ... ...続きを見る

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2014/07/30 13:28
奥の細道紀行 21. 大石田〜新庄
奥の細道紀行 21. 大石田〜新庄 ・ 大石田  (2014. 7. 9.)  「おくのほそ道」に『最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ』とあるように、芭蕉は最上川を下るため船待ちしようとして立石寺から大石田に出て、高野一栄宅に三日間滞在した。芭蕉来訪当時の大石田は酒田へ下る川船の発着所(河港)として栄えた所で、米や紅花などが積み出しされた。  当時、俳諧の世界には芭蕉たちの新しい風が起こっていたが、まだこの辺りでは古い流れがあり、新旧の分かれ目にあたり、適当な指導者が居ないまま、踏み迷う地元の俳人にとって、芭蕉の来... ...続きを見る

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2014/07/28 11:56
奥の細道 みちのく編
 奥の細道を訪ねる旅もようやく前半を終了しましので、前回の「旅立ち編」に続いて、今回は須賀川から平泉までを「みちのく編」としてまとめてみました。ご覧いただければ幸いです。 ...続きを見る

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2014/06/25 14:21
奥の細道紀行 20. 医王寺〜国見
奥の細道紀行 20. 医王寺〜国見 ・ 医王寺  (2014. 6. 5.)  医王寺は、源義経が鎌倉に駆けつけるときに家臣となって従い、屋島と京堀川で討ち死にした佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺である。のち、兄頼朝に追われた義経は、平泉に逃れる途中、この寺に立ち寄ったといわれ、弁慶の笈などゆかりの品が宝物館に収納されている。  「おくのほそ道」で、『佐藤庄司が旧跡は・・・・飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ庄司が旧館なり』とあるように、芭蕉は継信・忠信の父佐藤庄司の館跡を尋ねて歩いた。芭蕉が「... ...続きを見る

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2014/06/22 16:09
奥の細道紀行 19. 安積山〜信夫文知摺石
奥の細道紀行 19. 安積山〜信夫文知摺石 ◎今回と次回 (No.19 & No.20) は、2月に予定していたが大雪のため中止になっていた行程で、奥の細道の順路としては「No.9 鐙摺〜武隈の松」 の前に遡ります.。 ...続きを見る

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2014/06/17 16:05
奥の細道紀行 18. 尾花沢〜立石寺
奥の細道紀行 18. 尾花沢〜立石寺   ・ 尾花沢  (2014. 5. 16.)   山刀伐峠を越えて尾花沢に入った芭蕉は鈴木清風を訪れ、そのもてなしを受けてくつろいだ。「おくのほそ道」に『尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども志卑しからず』と描かれている清風は、この地方の特産品である紅花の問屋で、芭蕉とは江戸で知り合った俳人である。  清風宅跡は現在駐車場になっているが、その東隣りに国道に面して芭蕉清風歴史資料館があり、館の傍らに芭蕉像が建っている。近くに養泉寺がある。尾花沢で十日間も滞在した芭蕉は、この寺... ...続きを見る

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2014/06/10 14:37
奥の細道紀行 17. 尿前の関〜山刀伐峠
奥の細道紀行 17. 尿前の関〜山刀伐峠 ・ 尿前の関  (2014. 5. 15.)  いよいよ芭蕉は進路を西に向けて出羽の国に向かう。「おくのほそ道」では『小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす』と記している。  小黒崎・みづの小島(美豆の小島)は、古今集・続古今集などで詠われた歌枕である。江合川の広い河原に向かって、古今集の歌碑が建っている。     「をぐろ崎 みつの小島の人ならば 都のつとに いざといはましを」 河原を眺めると向こう岸近くに小さな山があるが、流れは一向に見えない... ...続きを見る

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2014/06/03 15:13
奥の細道紀行 16. 平泉(続)〜岩出山
奥の細道紀行 16. 平泉(続)〜岩出山 ・ 平泉  (続き)  中尊寺では先ず金色堂を見物した。私はどうゆう訳か今まで機会がなく、この歳になって平泉は初めてである。この金色堂を今まで見たことがなかったのだ。今回の奥の細道巡りを始めた動機も、金色堂を見たいことが第一であった。それだけに少年のような期待感でこの瞬間を迎えた。  期待以上に素晴らしいものだった。全体が金箔に覆われて、中央には阿弥陀三尊が安置され、周囲は蒔絵や螺鈿、彫金で埋め尽くされており、まさに燦然と輝く平安芸術の粋に只々圧倒されるばかりである。金色堂全体が密封され... ...続きを見る

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2014/05/30 14:13
奥の細道紀行 15. 一関〜平泉
奥の細道紀行 15. 一関〜平泉 ・ 一関  (2014. 5. 14.)  芭蕉が登米を発って一関に入った日は、ひどい大雨だった。「曽良随行日記」には、『十二日曇。戸今を立。・・・・・一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス』とある。 一関市内の「かっぱ崖」には幾つかの標識が建っている。このあたりで芭蕉は合羽も染み透るほどの豪雨に降られたらしい。 芭蕉は、地主町の磐井橋近くにあった金森家に二泊して、ここから平泉に行き中尊寺などを見物した。現在、磐井橋のそばに「二夜庵跡」の標識がある。そこには隣接した形で二軒の金森家があったが... ...続きを見る

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2014/05/27 22:39
奥の細道紀行 14. 石巻〜登米
奥の細道紀行 14. 石巻〜登米 ・ 石巻  (2014. 4. 17〜18.)  松島を発って石巻の日和山に向かう途中、石巻湾に面した東松島市、石巻市の津波被災地を通り、大震災の凄さ、恐ろしさを目の当たりにした。震災前は立派な市街地だった地区が、今は瓦礫などは整理されて一面の更地に化し、一階が破壊されたままの一軒家や柱だけになった寺がポツン立っていたりする。そのような中に、犠牲者を追悼・鎮魂するためお地蔵さんが立てられていた。バスを降り、線香を(防災のため火をつけないで)あげてお祈りしてきたが、しばらく涙がこぼれて止まら... ...続きを見る

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2014/05/12 23:02
奥の細道紀行 13. 松島、瑞巌寺
奥の細道紀行 13. 松島、瑞巌寺 ・ 松島  (2014. 4. 16〜17.)  「おくのほそ道」の冒頭の一節で、『松島の月まづ心にかかりて』と述べているように、芭蕉は深い期待をもって松島を訪れた。そして『そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹ばふ・・・・その気色えう然として、美人の顔を粧ふ』と松島の風景を絶賛した名文を記しているが、あまりの感動で俳句を詠めなかったか、この章では曽良の句だけを載せている。  私たちも塩釜から遊覧船に乗って松島湾を巡り、鐘島(下の写真)・千貫島・双子島などの島々を見て松島に渡った。芭... ...続きを見る

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2014/05/09 21:10
奥の細道紀行 12. 塩竈
奥の細道紀行 12. 塩竈 ・ 塩竈  (2014. 4. 16.)  塩竈神社は陸奥国一宮として古くから崇敬され、仙台藩主伊達家によって再興整備されてきた。芭蕉はここを詣でて、「おくのほそ道」に『かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ・・・・いと尊けれ』と崇敬と讃嘆の気持ちを記している。  「陸奥国一宮」の扁額を掲げた鳥居をくぐると、長く急な石段がある。これが表参道で石段の数は202段もある。「おくのほそ道」に『石の階九仞に重なり』とあるのがこの急坂である。 途中で数回休みながら登りきると、ちょう... ...続きを見る

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2014/05/08 11:29
奥の細道紀行 11. 多賀城〜末の松山
奥の細道紀行 11. 多賀城〜末の松山 ・ 壷碑(つぼのいしぶみ)・多賀城跡  (2014. 3. 9.)  多賀城外郭南門跡から公園に入り丘を登ってゆくと、四面が格子窓の鞘堂がある。この鞘堂に納められて立っているのが「壷碑」と云われた多賀城碑である。この壷碑は、神亀元年(724)創建、日本三古碑の一つに挙げられる古碑で、古くから歌枕として知られるものだ。芭蕉は壷碑を訪れて、その感激を「おくのほそ道」に次のように記している。    『ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。     行脚の一徳、存命の喜び、羇... ...続きを見る

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2014/03/31 14:35
奥の細道紀行 10. 笠島〜仙台
奥の細道紀行 10. 笠島〜仙台 ・ 笠島  (2014. 3. 8.)  「曽良随行日記」によると、陰暦5月4日 飯坂を出発した芭蕉一行は、伊達の大木戸・鐙摺・甲冑堂を過ぎて白石に一泊し、4日に岩沼で武隈の松を見物したのち、笠島へ左折する道を通り過ぎてしまい笠島を見られず、夕刻仙台に到着しているから、「おくのほそ道」本文と実際の行程との間には大きな差異があることになる。  私の読んだ本の解説によると、「おくのほそ道」で「笠島」の章を「武隈の松」の前に持ってきたのは、『道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやりて過... ...続きを見る

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2014/03/29 14:48
奥の細道紀行 9. 鐙摺〜武隈の松
奥の細道紀行 9. 鐙摺〜武隈の松 (2月に予定していた 「黒塚〜国見」 の行程は記録的な大雪のため中止になりました。この地区へは改めて行くことにして、今回は先に進みます。) ...続きを見る

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2014/03/25 15:37
奥の細道紀行 8. 須賀川
奥の細道紀行 8. 須賀川 ・ 須賀川  (2014. 1. 11〜12.)  「おくのほそ道」須賀川の章は『とかくして越え行くままに・・・・左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山連なる』とあり、白河の関を越えていよいよ本格的な奥州路へ踏み入れたのだという芭蕉の感慨が表われている。続いて『影沼といふ所を行くに、今日は空曇りて物影映らず』と記しているが、その影沼(鏡沼)跡は広い田園地帯の真ん中にある。その畔に芭蕉・曽良の像が建っているが、上記の山々を見渡しながら感慨を持って須賀川に向かう二... ...続きを見る

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2014/02/12 10:29
奥の細道紀行 7. 白河の関
奥の細道紀行 7. 白河の関 ・ 白河の関  (2014.1.11.)  白河の関は、5世紀の頃、蝦夷に対する防衛拠点として設けられた関であるが、9世紀初めには縮小し、廃絶された。その後も陸奥への入口として能因法師をはじめ多くの古歌が読み継がれてきたが、芭蕉の時代には、すでにその関跡がどこか定かでなくなっていた。  芭蕉は旧暦4月20日に、いよいよ白河の関を越えて、待望の陸奥入りを果たした。しかし、白河の関址と伝えられるものは何箇所もあって、どれが昔の白河の関跡か確認していたわけではない。「曽良随行日記」には、翌21... ...続きを見る

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2014/02/07 11:27
奥の細道 旅立ち編
 昨年9月に深川を出発した「奥の細道を訪ねて」の旅は、さる11日に白河の関を越えました。この間の写真を纏めてdigibook 「奥の細道・旅立ち編」を作りましたので、ご覧ください。 ...続きを見る

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2014/01/24 16:17
奥の細道紀行 6. 雲厳寺〜遊行柳
奥の細道紀行 6. 雲厳寺〜遊行柳 ・ 雲厳寺  (2013.12. 5.)  芭蕉は、黒羽に滞在中、足を延ばして雲厳寺を訪れている。その目的は、師と仰ぐ仏頂和尚が修行した庵跡を見ることであった。雲厳寺は木々の鬱蒼とした山中にあり、私たちが行った時にも、境内にはだれ一人見えず、静寂そのものであった。山門を入った左側に石碑があり、仏頂和尚の 「たて横の 五尺にたらぬ 草の庵 むすぶもくやし あめなかりせば」の和歌と、芭蕉の句が並んで刻してある。              「木つゝきも 庵はやぶらず 夏こだち」  「仏頂和尚山... ...続きを見る

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2013/12/14 20:43
奥の細道紀行 5. 玉生〜黒羽
奥の細道紀行 5. 玉生〜黒羽 ・ 玉生  (2013.12. 4.)  日光から黒羽をめざして那須野を進んでいた芭蕉と曽良は、玉生で宿泊した。「おくのほそ道」には『農夫の家に一夜を借りて』とあるが、「曽良随行日記」には『名主ノ家ニ入リテ宿カル』とある。玉生の名主は玉生氏で、代々七郎右衛門の名を受け継いでいた。  私たちはその屋敷跡を訪ねた。そこは現在空き地になっていて、「芭蕉一宿之跡」の石碑と「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」の碑が建っており、玉生宿と芭蕉との謂われを紹介する解説文が刻まれている。 ・ 黒羽  (2013.... ...続きを見る

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2013/12/10 17:14
奥の細道紀行 4. 鹿沼〜日光
奥の細道紀行 4. 鹿沼〜日光 ・ 鹿沼  (2013.11.20)   3月27日に江戸を出発した芭蕉は3日目の29日夕刻には鹿沼に到着している。曽良随行日記には『鹿沼ニ泊ル』とあるだけで宿舎名の記載はないが、鹿沼の西の寺と云われた光太寺に泊まったと伝えられている。光太寺は小高い山の中腹にあり、本堂の左側に小さく盛られた塚の上に「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られた墓碑が建っている。この塚は「笠塚」と云い、芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養したものだという。 私たちは、光太寺のあと、近くにある今宮神社に行った。... ...続きを見る

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2013/11/30 14:18
奥の細道紀行 3. 草加〜室の八島
奥の細道紀行 3. 草加〜室の八島 ・ 草加・春日部  (2013.10.18)  草加は日光街道で千住の次の宿場である。曾良の「随行日記」によれば、『廿七日夜、カスカベに泊る。江戸より九里余』とあって、第一日夜は粕壁に泊まったことがわかる。それを芭蕉は『その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり』と書いている。これは、人々との別れを惜しみ、肩の荷の重さに苦しんだ旅の第一日のたどたどしい歩みを強調するためのフィクションであると云われている。芭蕉が「粕壁」よりも「草加」と云う地名のひびきを好んだということもあったと思う。 草... ...続きを見る

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2013/10/31 18:55
奥の細道紀行 2. 千住
奥の細道紀行 2. 千住 ・ 千住  (2013. 9. 27)  千住大橋を渡った所に大橋公園がある。私は公園の脇から隅田川の河岸に下りてみた。この辺りが船着場のあったところで、芭蕉はここで船から上がったのだ。そして、ここで見送りに出向いた人々と別離を惜しんで旅立ったのである。護岸には蕪村筆の「旅立ちの図」が大きく描かれている。 大橋公園には「おくのほそ道矢立初の碑」と「おくのほそ道行程図」が建てられており、碑には『千じゅと云所にて・・・・・・・見送なるべし』と、「おくのほそ道」の一節が刻してある。       ... ...続きを見る

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2013/10/08 16:07
奥の細道紀行 1. 旅の始めに・深川
奥の細道紀行 1. 旅の始めに・深川 ・ 旅の始めに  若い頃に読みかじった松尾芭蕉の「おくのほそ道」(岩波文庫)を引っぱり出して読んでみた。古文に不慣れな私でも、とても面白く読むことが出来た。そして、関連の解説本数冊も立て続けに読んでみて、「奥の細道」を実際にたどってみたいという気持ちに駆り立てられた。一度は行ってみたいと思っていた平泉中尊寺や山寺にも行ける・・・「そうだ 奥の細道 行こう !!」 と決心した。  最近は奥の細道をたどる旅も一つのブームになっているらしく、旅行会社でもツアーを組んだりしている。これに乗っか... ...続きを見る

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2013/10/06 22:34

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