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zoom RSS 奥の細道紀行 37. 全昌寺〜永平寺

<<   作成日時 : 2015/01/23 18:57   >>

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・ 全昌寺  (2014. 11. 29.)
 八月五日(陽暦9月18日)山中温泉で芭蕉と別れた曾良は全昌寺で宿泊して、七日に出立している。芭蕉が小松で生駒萬子にあった後『大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊』ったのは、『曾良も前の夜この寺に泊まりて』という「おくのほそ道」の記述によれば八日の夜ということになる。
 全昌寺は曹洞宗の寺院で、大聖寺城主山口氏の菩提寺であり、芭蕉が山中温泉で宿泊した和泉屋の菩提寺でもあった。芭蕉も曾良も和泉屋の紹介で全昌寺に宿泊したものと思われる。
 曾良はここで、「よもすがら秋風聞くや裏の山」と詠んだ。本堂や庫裡の背後にある山はさほど大きなものではないが、現在も雑木や竹が生い茂っている。翌朝出立しようとしていた芭蕉は、若い僧に乞われて「庭掃きて出でばや寺に散る柳」と一句書き与えた。きれいに整備されている全昌寺の庭園には、これらの句碑が建ち並び、芭蕉の句に詠まれた柳の後裔が山門の脇に植えられ聳え立っている。
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 私たちは本堂に上がり、寺宝の一つの杉風作の芭蕉木像を見せた貰い、芭蕉宿泊の部屋(改築されたもの)も見てきた。また、全昌寺は五百羅漢が有名だという。本堂の左にある羅漢堂に入ってみると、壁面にびっしり並んだ五百羅漢は壮観であった。
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・ 汐越の松  (2014. 11. 29.)
 全昌寺を立った芭蕉は汐越しの松を訪ねた。「おくのほそ道」に『越前の境、吉崎の入江を舟に掉さして、汐越の松を尋ぬ』とある。吉崎は蓮如上人の旧跡として名高く、東本願寺の別院(東御坊)・西本願寺の別院(西御坊)がある。しかし、「おくのほそ道」に一言も芭蕉がそれに触れないのは、西行作と伝える歌、「よもすがら嵐に波を運ばせて 月を垂れたる汐越の松」に惹かれて来たからである。この歌は西行の「山家集」などには見当たらず、蓮如上人の作であるとの説が有力であるが、当地の名所歌としての古歌を西行作として芭蕉が教えられていたということであろう。なお、近松もこの歌を西行作と思っていたらしく、「傾城反魂香」に『当国(越前)の名木は西行が塩越の松』と記している。
 汐越の松のある場所は、現在芦原ゴルフクラブになっている。私たちは、クラブハウスに挨拶してそこを通り抜け、ゴルフ場の中の通路を歩いて、日本海に面した汐越の松を見てきた。
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 安永二年(1773)に庄屋十治郎が書いた「浜坂浦明細帳」には『汐越松 五十七本』とあり、うち十六本までには、見とれ松・くらかけ松・こしかけ松・からかさ松・駒つなぎ松などと個別の名称がついていた模様である。いまはゴルフ場の松林の崖下に「奥の細道汐越の松遺跡」の石碑が建ち、巨木の残骸が横たわっているだけである。

・ 天龍寺  (2014. 11. 30.)
 汐越の松を見物した芭蕉は、金津・丸岡を経て松岡に至り、天龍寺に『古き因(ちなみ)』のある大夢和尚を訪ね、ここで一泊した。天竜寺は曹洞宗永平寺の末寺で、福井松平家の菩提寺である。参道の右側に「芭蕉塚」が建っている。
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  立花北枝は金沢からここまで芭蕉に随行してきたが、いよいよここで別れることになった。別れに臨み芭蕉が詠んだ句が、「物書きて扇引きさくなごりかな」である。境内にこの句碑があるというが、私たちは、この句碑を見ないで先を急いだ。
 芭蕉は丸岡を経て天竜寺にきたが、私たちも丸岡に寄り、丸岡城を見てきた。丸岡城は、現在天守閣では日本最古の建築様式を持つ平山城で、霞ヶ城の別名を持つ美しい城である。私も天守閣に上ったが、ここからの眺めは素晴らしい。
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 徳川家康譜代第一の功臣である本多作左衛門重次が陣中から妻あてに「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ」と書き送った話は有名であるが、文中のお仙とは嫡子仙千代で、後の福井城主松平忠直に仕え、数度の戦いに武勲を立て丸岡城6代目の城主になった本多成重である。この書簡碑が天守閣の石垣のそばに建っている。
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           「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」

・ 永平寺  (2014. 11. 30.)
 永平寺は、曹洞宗の大本山として著名である。現在、年間100万人以上の観光客が訪れるという。建物の広さは述べ1万4800平方メートル、境内の面積は33万平方メートルにおよぶ大寺院である。
 芭蕉は「おくのほそ道」に『五十町山に入りて、永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。・・・貴きゆゑありとかや』と、永平寺が尊いお寺であることを記しているが、その他についての記載はない。また、永平寺のなかでは芭蕉の姿は遠く霞んでしまい、境内に芭蕉に関するものは何もない。 
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 芭蕉は、天竜寺で北枝と別れて次の福井で等栽に会うまでは弟子を伴わなかった。この間の永平寺参拝が、道中で唯一の単独で行動したところだといわれている。「寂しがり屋の芭蕉が、よくもまあ山深い永平寺を一人で参詣したものだ」と思うのであるが、一人ではなかったという説もある。前項の天龍寺大夢和尚は江戸品川天竜寺の住職だった人で芭蕉とは旧知の仲だった。この大夢が芭蕉を本山の永平寺に案内したのだという。この説は推察の域を出ないが、十分有り得る話だと思う。
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 私は永平寺参詣は2度目である。最初は50数年前で二十代の頃であったが、境内は閑散として厳粛な雰囲気であったと記憶している。今回は境内が人であふれていて観光地的な感じである。前回の記憶で印象深かった長い階段の回廊の写真を撮りたいと思っていたのだが、人がいっぱいで静かな回廊の写真が撮れない。諦めかけたが、広い館内を回っているうちに、一瞬、人影のないシーンに巡り会った。「念ずれば通ず」の一枚である。



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