フォトひとり言

アクセスカウンタ

zoom RSS 奥の細道紀行 20. 医王寺〜国見

<<   作成日時 : 2014/06/22 16:09   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像

・ 医王寺  (2014. 6. 5.)
 医王寺は、源義経が鎌倉に駆けつけるときに家臣となって従い、屋島と京堀川で討ち死にした佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺である。のち、兄頼朝に追われた義経は、平泉に逃れる途中、この寺に立ち寄ったといわれ、弁慶の笈などゆかりの品が宝物館に収納されている。
 「おくのほそ道」で、『佐藤庄司が旧跡は・・・・飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ庄司が旧館なり』とあるように、芭蕉は継信・忠信の父佐藤庄司の館跡を尋ねて歩いた。芭蕉が「丸山」と書いているのは現在の館山・大鳥城址である。私たちもタクシーで館山に登ってみた。頂上の城址公園は広場になっていて、そこからの眺望は素晴らしく、飯坂・福島の町が一望できる(このページトップの写真)。
 芭蕉は、『人の教ふるにまかせて涙を落とし、またかたはらの古寺(医王寺)に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり・・・・・袂をぬらしぬ』と、感涙の文章を続けている。
 佐藤一家の墓碑は、医王寺の薬師堂の背後にあるが、芭蕉がいう『二人の嫁がしるし』は医王寺の墓地にはない。芭蕉は、斎川の甲冑堂に祀られていた二人の木像から受けた感銘を、この「飯塚の里」の章に一緒に記したという事だろう。(下の写真は継信・忠信兄弟の墓)
画像
 医王寺の境内、本堂の前に古い芭蕉句碑がある。この古碑のそばに説明碑があり、上部に「笈も太刀も」の句を配し、下部に「この句碑は寛政十二年十月・・・・・芭蕉没後百六年目に建立した」旨を記してある。寛政12年(1800年)は、松平定信が白河の関に「古関蹟」の碑を建てたのと同年である。
画像
              「笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟」

・ 飯坂温泉  (2014. 6. 5.)
 丸山・医王寺を尋ねた後、芭蕉は飯坂(飯塚)温泉で宿泊した。「おくのほそ道」に『その夜、飯塚に泊まる。温泉あれば湯に入りて宿を借るに、土座に筵を敷きて、あやしき貧家なり』と記している。続けて、雨漏りや蚤・蚊に悩まされ、眠れぬ夜を過ごした事も記しているが、曽良随行日記にはそのような様子はうかがえない。これも「羇旅辺土の行脚」を強調するための、芭蕉一流のフィクションかも知れない。
 私たちも飯坂温泉に行き、最初に鯖湖湯に行った。鯖湖湯は、日本最古の木造建築共同浴場で、松山道後温泉坊っちゃんの湯の建築よりも古いという。そばに「芭蕉と曾良 入浴の地」という石柱が建てられている。これを見て私は「あれ?」と思った。事前に得ていた知識では、芭蕉が泊まったのは「滝の湯」だった筈である。『湯に入りて宿を借る』と言うのは「鯖湖湯で湯に入り、滝の湯で泊まった」ということかとも思ったが、場所も離れているし有り得ないだろう。
画像
画像
 私たちは、つづいて「滝ノ湯跡」を見に行った。狭い道の石段を川岸まで降りていくと、「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」という記念碑が建っている(昭和43年建立)。碑面には「おくのほそ道」飯塚の章の一文が記され、碑の裏には、芭蕉が一夜を過ごした貧家の場所はここ滝の湯であると伝えられている旨の、「ゆかりの地」たる理由が書いてある。 
画像
 この場所は、ホテル脇の一段と低い土地で鬱蒼とした感があり、芭蕉の記した『あやしき貧家』はここだと納得できる雰囲気である。芭蕉が泊まったのは滝の湯の湯番小屋だという説があるらしいが、さも有りなんと思われた。
 ところが、記念碑の左に小さなボードが建てられ(2011年3月)、最近の研究で芭蕉が入浴したのは滝の湯ではなく、鯖湖湯あるいは当座湯だという説が有力であると明記してある。
 私はこれを見て、理由もなくガッカリした。三百年以上前のことで、今頃になって、どんな有力な研究が出てきたというのだろうか。この看板を見ていて、私の鼻には観光政策の臭いがしてきた。
 
画像
 私たちは温泉街を出たあと、途中桑折町で、芭蕉像が建っている旧伊達郡役所と、「田植塚」がある法円寺を見てから国見の「伊達の大木戸」に向かった。

・ 国見  (2014. 6. 5.)
 芭蕉は、飯塚で持病も起きて眠れぬ夜を過ごしたが、翌日は 『道路に死なん、これ天の命なりと、気力いささかとり直し、道縦横に踏んで、伊達の大木戸を越す』と、元気を取り戻して旅を続けた。
 伊達の大木戸は、文治5年(1189年)頼朝の鎌倉軍を迎え撃つため平泉方の拠った柵で佐藤庄司敗戦の地である。ここは、平泉藤原の家臣、西木戸太郎国衝が掘らせた二重の空堀りで、厚樫山の中腹から阿武隈川まで続いていたという。現在もその一部が残り、「阿津賀志山防塁」として国の史跡に指定されている。 
画像
 この所から少し山の方に行くと、旧奥州道中の国見峠長坂跡がある。芭蕉が旅をしたのもこの道である。峠の頂上付近の昔茶屋があったというところに「芭蕉翁碑」が建っていて、「おくのほそ道」の『遙かなる行末をかかへて……伊達の大木戸を越す』の一文が刻してある。
画像
 
画像
 その先を少し行くと、「あつかし山古戦場」の標識があった。ここで奥州軍は敗れ、佐藤庄司もこの戦いで戦死したと云われる。このあと間もなく平泉は灰塵に帰し、奥州藤原氏は滅亡したのである。
画像




                ******************

              ★ 筆者のホームページ ★
             ENAKA PHOTO GALLERY
                  http://www.enaka.jp/
             特設ギャラリー 「特集・奥の細道」
                http://www.enaka.jp/hosomiti.html

     *************************************************
        Copyright © Keiichi Enaka. All Rights Reserved.

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
奥の細道紀行 20. 医王寺〜国見 フォトひとり言/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる