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趣味で撮影した写真を掲載し、日々感じたこと、思いついたことを
書き添えたフォトエッセイ集です。 紀行エッセイもあります。
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  最近の更新 「新緑の大和古寺」  (2016/ 6/ 12)

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タイトル 日 時
奈良紀行 5. 法華寺
奈良紀行 5. 法華寺 ・法華寺 (6月5日)  唐招提寺を拝観のあと法華寺に向かった。途中、24号線の奈良バイパスを通ったが、近鉄奈良線を跨ぐ辺りで高架になってカーブする所がある。ここが平城宮跡を見る絶好の場所で、徐行するバスの車窓から、復元された大極殿を中心として平城宮跡全体を見渡すことが出来た。  法華寺は、元は藤原不比等の邸宅があった場所で、不比等の没後は娘の光明子が相続し、光明子が聖武天皇の皇后になると、ここが皇后宮になった。こうした経緯から、法華寺は藤原氏の氏寺に近い性格をもち、同時に大和国の国分尼... ...続きを見る

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2016/07/30 15:41
奈良紀行 4. 唐招提寺
奈良紀行 4. 唐招提寺 ・唐招提寺 (6月5日)  唐招提寺が大好きという人は多い。先日も友人の一人が、私の写真(このページトップの写真)を見て、「唐招提寺は大好きな寺だ」と言っていた。また、有名人でも、瀬戸内寂聴は著書「寂聴古寺巡礼」の中で、『奈良には多くの名刹があるが、その中で唯一の好きな寺をあげよといわれるなら私は即座に唐招提寺をあげる』といっている。私も、47、8年前、唐招提寺に初めて行った30代の頃からこの寺が大好きで、以来機会ある度に何回も訪れている。  私たちは、朝9時前に唐招提寺の南大門をくぐっ... ...続きを見る

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2016/07/19 14:18
奈良紀行 3. 興福寺
奈良紀行 3. 興福寺 ・興福寺 (6月4日)  興福寺は久しぶりである。以前、西国三十三観音巡りで興福寺南円堂(第九番札所)を訪れたとき以来である。今回、ここへ来る前に参拝した白毫寺境内の見晴台から奈良市街を見渡したが、五重塔の後ろに巨大な建設やぐらが見えた。これは興福寺「中金堂」を再建工事中のものである。 興福寺は、平家による南都焼き討ちの際、わずかな小院を除いてすべての堂塔が焼失したのを始めとして、1300年間に大小百回以上も火災に遭ったという。しかも驚くべきことに、興福寺はそのつど天平当時の同じ場所、同じ... ...続きを見る

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2016/07/07 17:01
奈良紀行 2. 白毫寺
奈良紀行 2. 白毫寺 ・白毫寺 (6月4日)  白毫寺は、奈良市東部の山並み、若草山・春日山に続き南に連なる高円山の西麓にある古寺である。高円と呼ばれたこの地に天智天皇の第七皇子、志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられている。平安遷都に伴い寺は寂れたが、鎌倉時代になり西大寺中興の祖である叡尊によって再興された。そして、室町時代には兵火により全山焼失するという苦難の時代を経て後、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧・空慶上人によって再興されたという。明治の廃仏毀釈の後、しばらく境内は荒れたが、人々の尽力によ... ...続きを見る

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2016/06/29 11:24
奈良紀行 1. 喜光寺
奈良紀行 1. 喜光寺 ・喜光寺 (6月4日)  久しぶりに奈良へ旅行に出た。3年前に桜撮影で奈良地方へ行ったことはあるが、奈良の仏像を観る旅は20年振りくらいだろうか。今回は、唐招提寺の鑑真和上像の御開帳に合わせての日程で、6月4・5日の一泊二日で6ヶ寺を回る計画である。テーマは、鑑真をはじめ行基など奈良時代の名僧の彫像を観ることにある。京都で新幹線から近鉄特急に乗り換え、大和西大寺駅で降りると直ぐにマイクロバスで喜光寺へ向かった。今回は、現地参加の講師の他は添乗員を含めて10名という小グループの旅行である。 ... ...続きを見る

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2016/06/19 11:05
京都紀行 8. 勝持寺・願徳寺
京都紀行 8. 勝持寺・願徳寺 ・勝持寺 (4月6日)  京の西山連峰の麓に位置する勝持寺は、天武8年(679)に天武天皇の命により創建されたのが始まりという古刹である。承和5年(837)仁明天皇の勅により塔頭四十九院を建立されたが、応仁の乱で仁王門を除きすべて焼失した。現在の建物はその後再建されたものだが、唯一仁王門(上の写真)だけが当時のものである。この仁王門を入って、長い坂を登ってゆくと、勝持寺と願徳寺が並んで建っている。  勝持寺は、別名「花の寺」ともいう桜の名所で、平安時代の歌人、西行は保延6年(1140)、... ...続きを見る

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2016/06/02 19:05
京都紀行 7. 十輪寺
京都紀行 7. 十輪寺 ・十輪寺 (4月6日)  十輪寺は、京都西山大原野にある山寺である。平安時代初期に創建され、文徳天皇の后、染殿皇后(藤原明子)が安産祈願に訪れ、後の清和天皇が生まれたことから、子授け・安産のご利益がある寺といわれてきた。応仁の乱で一時は荒廃したが、江戸時代に藤原氏の公家・花山院家により再興された。  平安時代の歌人で「伊勢物語」の主人公在原業平が晩年をこの寺に隠棲したと伝わり、十輪寺は通称「なりひら寺」と呼ばれている。寺の裏山を登って行くと業平の墓がある。  十輪寺の住所は「西京区大原... ...続きを見る

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2016/05/30 09:33
京都紀行 6. 東寺の夜桜
京都紀行 6. 東寺の夜桜 ・東寺 (4月5日)  夕刻5時ごろ東寺に着いた。今回の訪問の主な目的は、五重塔初層の拝観と夜桜見物である。  東寺は、講堂にある立体曼荼羅と云われる仏像群があまりにも有名である。大日如来を中心に21体(内16体が国宝)の仏像が整然と配されている。この講堂や金堂の仏像は、私は今まで何度も(勿論今回も)拝観したが、五重塔初層は初めての特別拝観である。  東寺五重塔は、天長三年(826)弘法大師の創建にはじまるが、何度も火災に遭い、現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進により竣工した... ...続きを見る

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2016/05/29 11:12
京都紀行 5. 法然院
京都紀行 5. 法然院 ・法然院 (4月5日)  高台寺のあとは、銀閣寺近くの駐車場まで行き、そこから哲学の道を散策しながら法然院に向かった。哲学の道は琵琶湖疎水へ続く川沿いに整備された散策路で、桜の名所にもなっている。「哲学の道」の名は、哲学者西田幾多郎がここを散策して思索に耽った事から付けられた。  法然院は、京都東山の鹿ケ谷にある山寺で、専修念佛の元祖・法然上人ゆかりの寺である。哲学の道を離れて法然院の境内に入っていくと、一転して木々の茂る山中の趣に変わる(このページトップの写真)。伽藍内は通常非公開... ...続きを見る

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2016/05/28 12:34
京都紀行 4. 高台寺
京都紀行 4. 高台寺 ・高台寺 (4月5日)  京都の桜見物を目的に、併せて美しい仏像を見学しようと、4月5日から1泊2日で京都に行ってきた。紅葉と桜の季節、京都の街はいつも観光客でいっぱいだが、今回は街の中心部だけでなく、比較的観光客の少ない洛西、西山の麓にある寺々を回って来た。  京都駅に着いて直ぐに、私たちは高台寺近くにある 「ザ ソウドウ 東山 京都」というレストランへ行き、先ず腹ごしらえをした。日本画の巨匠竹内栖鳳邸宅だったという、趣深いイタリアン レストランである。窓から八坂の塔を眺めながら少... ...続きを見る

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2016/05/19 16:05
オペラ「アンドレア・シェニエ」を観る
オペラ「アンドレア・シェニエ」を観る  4月20日、新国立劇場でオペラ「アンドレア・シェニエ」を観た。このオペラを生で観るのは私は初めてだが、今回のお目当てはタイトルロールを歌うテノール、カルロ・ヴェントレである。彼の新国立劇場出演は、2009年「トスカ」のカヴァラドッシ、2013年「アイーダ」のラダメスに続く3回目である。初登場の「トスカ」ではその輝かしく力強い声で、東京のオペラファンを虜にしてしまった。私も観たが、この時の聴衆の熱狂的なカーテンコールは今でもよく覚えいる。以来、私も彼のファンになってしまい、続いて「アイーダ」... ...続きを見る

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2016/04/29 16:50
オペラ「サロメ」を観る
オペラ「サロメ」を観る  3月6日、私は新国立劇場のオペラ「サロメ」を観てきた。 このオペラは、預言者ヨハネの首を望む少女・・・という新約聖書に記された挿話を基にしたオスカー・ワイルドの戯曲をリヒヤルト・シュトラウスがオペラ化したものである。 ヘロデ王から踊りの褒美として何でも所望せよと言われた王女サロメは預言者ヨハナーン(ヨハネ)の首を求め、銀の皿に載せたヨハナーンの生首と抱いて、その唇にキスをして恍惚となる、というストーリーである。このワイルドの戯曲は、耽美的で退廃的な内容であり、更にオーブリー・ビアズリーが... ...続きを見る

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2016/03/15 21:40
新国立劇場「ラインの黄金」の新聞評
新国立劇場「ラインの黄金」の新聞評  新国立劇場の「ラインの黄金」の評が、一昨日10/26日の朝日新聞の夕刊に掲載され、それを読んで、その酷評ぶりに驚いた。10/14上演の評で評者は音楽評論家・鈴木淳史(以下敬称略)である。  詳しくは上の新聞切り抜きの画像を見ていただきたいが (このブログは 画像のクリック拡大が2回可能)、見出しは「古色蒼然, 現代に響かず」とあり、評文は新国立劇場の飯守泰次郎音楽監督に対する批判とも見える記載に終始して、音楽的な評は最後に少し触れるだけというものである。  演出は故ゲッツ・フリードリヒ... ...続きを見る

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2015/10/28 15:56
新国立で「ラインの黄金」を観る
新国立で「ラインの黄金」を観る  10月1日、新国立劇場で 2015-16シーズンのオープニング公演、新制作の「ラインの黄金」を観てきた。ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作の序夜である。「ニーベルングの指輪」はワーグナーが26年にわたる歳月をかけて作曲した最大の傑作で、権力の象徴である黄金の指輪をめぐって、神々と人間が三世代に渡って繰り広げる壮大なスケールの物語である。今回のプロダクションは、ドイツの名演出家、ゲッツ・フリードリヒがヘルシンキで演出したもので、今回の序夜「ラインの黄金」に続き、2016年秋に第1夜... ...続きを見る

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2015/10/06 18:56
京都紀行 3. 高山寺
京都紀行 3. 高山寺 ・高山寺 (6月24日)  今年5月に上野の東京国立博物館で「高山寺の至宝展」が開かれたが、大勢の人が詰めかけて、入場が2〜3時間待ち、館内に入ってからも、お目当ての「鳥獣戯画」を見るのに2時間待ちという状態だったという。私も鳥獣戯画を見たかったが、この混雑ぶりを聞いて、見に行くのをあきらめたのだった。  栂尾にある高山寺は古くから文化財の宝庫で、「鳥獣人物戯画」のほか「明恵上人樹上座禅像」など国宝6点と多数の重要文化財を所蔵することで有名な寺である。ただし、建造物以外の指定文化財の大部... ...続きを見る

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2015/08/11 16:19
京都紀行 2. 妙心寺東林院
京都紀行 2. 妙心寺東林院  ・妙心寺東林院 (6月23日)  京都洛西の花園は、北に衣笠山などの山々を望み、その山麓には石庭の竜安寺、金閣寺、西には兼好法師ゆかりの双ヶ岡、さらに嵯峨野、嵐山と広がる地で、その中心地にある大本山妙心寺は40余の塔頭がある大寺院である。その塔頭の一つである東林院は、周囲を竹藪に囲まれ、沙羅双樹の庭園と枯山水庭園が、水琴窟の雅な音色とともに、古来粋人に好まれてきた寺である。  「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・・」と「平家物語」にうたわ... ...続きを見る

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2015/07/31 17:07
京都紀行 1. 祇王寺
京都紀行 1. 祇王寺  ・祇王寺 (6月22日)  6月下旬に京都に行ってきた。この時期、初夏の京都は初めてである。最近、緑の京都がきれいだということで、「青もみじの京都へ行こう」と、JRでも盛んに宣伝している。普通、京都といえば、シーズン的にはやはり秋の紅葉ということになり、また春の桜の季節も同様に京都の町は観光客で溢れるのだが、6月の緑の季節は観光客が非常に少ない。今回は、2泊3日の日程で10か所ほど京都の寺々に行ったのだが、どこも人が少なく、ゆっくりと見て回り、寺の緑と夏花などを撮影することが出来た。 ... ...続きを見る

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2015/07/28 11:46
新国立劇場の「椿姫」
新国立劇場の「椿姫」 一昨夜、新国立劇場で「椿姫」の新制作公演を観てきた。この名作オペラの新制作は新国立では13年振りだというが、光を有効に使った素晴らしいオペラが出来上がった。演出はフランスの気鋭演出家のヴァンサン・ブサール。 彼は、事前に『照明は通常、舞台を照らすものだが、私は音楽を照らすものだと考えている。音楽に色を付ける、音楽に光を灯す、そのための照明です。新国立の「椿姫」では、音楽が色で語り掛ける様な照明を心掛ける』(The Atre 14年11月号)と書いていたが、まさに一昨夜の「椿姫」では、照明... ...続きを見る

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2015/05/21 16:56
奥の細道紀行 40. 大垣 ・ 旅を終えて
奥の細道紀行 40. 大垣 ・ 旅を終えて ・ 敦賀〜大垣  (2014. 12. 4〜5.)  敦賀から大垣までは決して至近の距離ではないのだが、芭蕉がどこを通って大垣まで辿り着いたかは、今でも謎とされている。私たちは、長浜を経由して大垣まで、芭蕉も歩いたと思われる場所を辿って行った。  敦賀・色の浜を後にして、先ず最初に立寄ったのは福井・滋賀の県境にある西村家である。西村家には「おくのほそ道」素龍清書本が残る。表紙に貼った題簽だけは芭蕉の直筆である素龍本は、芭蕉没後、遺言により弟子の向井去来に渡り、その後幾人かのもとを経て、敦... ...続きを見る

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2015/02/11 12:37
奥の細道紀行 39. 敦賀〜色の浜
奥の細道紀行 39. 敦賀〜色の浜 ・ 敦賀  (2014. 12. 4.)  芭蕉が敦賀に着いたのは、仲秋の名月の前日であった。「おくのほそ道」には、『十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む』とある。宿は出雲屋であった。山中温泉で芭蕉と別れた曾良が、先に敦賀に着いて手配している。「曾良随行日記」に『十日快晴・・・出雲や弥市良ヘ尋。金子一両、翁へ可渡之旨申頼、預置也』とある。出雲屋の跡は現在レストランになっており、道路脇に「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の標柱が建っている。  芭蕉が着いた十四日の夜は晴れていた。明日の仲秋の名月も晴れる... ...続きを見る

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2015/01/29 16:39
奥の細道紀行 38. 福井〜木ノ芽峠
奥の細道紀行 38. 福井〜木ノ芽峠 ・ 福井  (2014. 11. 30.)  芭蕉は、永平寺で午後の一時を過ごし、夕方になってから福井の町へ向かった。「おくのほそ道」には『福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし』とある。この永平寺から福井までが、奥の細道で芭蕉が一人で旅をした唯一の場所である。芭蕉は、西行のような孤独な一人旅を愛する人ではなかった。『黄昏の道たどたどし』という表現に、芭蕉の心細さが滲み出ているように思う。  芭蕉は福井で、十年前に江戸に芭蕉を訪ねてきた『等栽といふ古き隠士』を... ...続きを見る

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2015/01/26 17:51
奥の細道紀行 37. 全昌寺〜永平寺
奥の細道紀行 37. 全昌寺〜永平寺 ・ 全昌寺  (2014. 11. 29.)  八月五日(陽暦9月18日)山中温泉で芭蕉と別れた曾良は全昌寺で宿泊して、七日に出立している。芭蕉が小松で生駒萬子にあった後『大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊』ったのは、『曾良も前の夜この寺に泊まりて』という「おくのほそ道」の記述によれば八日の夜ということになる。  全昌寺は曹洞宗の寺院で、大聖寺城主山口氏の菩提寺であり、芭蕉が山中温泉で宿泊した和泉屋の菩提寺でもあった。芭蕉も曾良も和泉屋の紹介で全昌寺に宿泊したものと思われる。  曾良はこ... ...続きを見る

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2015/01/23 18:57
奥の細道紀行 36. 山中
奥の細道紀行 36. 山中 ・ 山中  (2014. 11. 29〜30.)  七月二十七日(陽暦9月10日)小松から山中温泉に到着した芭蕉の、山中温泉滞在中の動静を「曾良随行日記」は次のように記載している。 『廿七日 ・・・山中ニ申ノ下刻着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ  北ヘ夕立通ル。  廿八日 快晴。夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。夜にニ入、雨降ル。  廿九日 快晴。道明淵、予、不往。  晦  日 快晴。道明が淵。  八月朔日 快晴。黒谷橋ヘ行』 二日・三日・四日は天候のことのみを記してお... ...続きを見る

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2015/01/15 17:18
奥の細道紀行 35. 那谷
奥の細道紀行 35. 那谷 ・ 那谷  (2014. 11. 29.)  芭蕉は、七月二十七日(陽暦9月10日)小松から山中温泉に行き、八月五日(陽暦9月18日)に曾良と別れ、北枝を伴って再び小松に赴く途中で那谷寺に詣でた。「曾良随行日記」には、『五日 曇。昼時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小松ニ、生駒万子為出会也』とある。生駒万子は本名重信、禄高千石の加賀藩士である。「おくのほそ道」の文章は小松→那谷寺→山中温泉という常識的な道順に従って配列してあるが、旅の事実そのままの記述ではない。  那谷寺は高野山真言宗の... ...続きを見る

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2015/01/13 15:31
奥の細道紀行 34. 小松
奥の細道紀行 34. 小松 ・ 小松  (2014. 11. 29・30.)  芭蕉は、七月二十四日(陽暦9月7日)盛大な見送りを受けて金沢を立ち、小松で近江屋という旅宿に泊まった。金沢の北枝も同道した。翌日出立しようとしたが、小松の人々に引き留められ、山王宮(日吉神社)の神主・藤井伊豆宅に宿泊して、句会を催した。ここで詠んだ発句が「おくのほそ道」に記載された「しほらしき名や小松吹く萩薄」である。小松滞在中、芭蕉は立松寺(建聖寺)・諏訪宮などを訪れ、そして『多田八幡ヘ詣テ真(実)盛が甲冑・木曽願書ヲ拝』んだ(曽良随行... ...続きを見る

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2014/12/18 22:33
奥の細道紀行 33. 金沢
奥の細道紀行 33. 金沢 ・ 金沢  (2014. 11. 28.)  七月十五日(陽暦8月29日)高岡をたった芭蕉は、埴生八幡宮を拝み、倶利伽羅峠を越えて加賀の国に入り、『未ノ中刻』(午後3時)、加賀百万石・北国第一の城下町金沢に到着した。「曾良随行日記」十五日の項には、『京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ。良刻、竹雀・牧童同道シテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由』とあって、芭蕉が小杉一笑の死を知らず、金沢に着いたら第一番にこの人を訪ねようとしていたことが分かる。それだけに、芭蕉の驚きと悲しみは深かったと思わ... ...続きを見る

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2014/12/16 17:06
奥の細道紀行 32. 奈呉の浦〜倶利伽羅峠
奥の細道紀行 32. 奈呉の浦〜倶利伽羅峠 ・ 奈呉の浦  (2014. 10. 26.)  滑川に一泊した芭蕉は、富山へは寄らず、神通川等を渡り放生津に入った。「おくのほそ道」には『黒部四十八が瀬とかや、数知らぬ川を渡りて、那古といふ浦に出づ』と記している。  奈呉(那古)の浦は放生津潟の古称である。天平18年(746)から5年間、越中国守として在任した大伴家持が、奈呉の浦の風景を好んで和歌を詠み、以来奈呉の浦は万葉歌枕の名勝地となった。  放生津八幡宮は、大伴家持が宇佐八幡宮を勧請して奈呉八幡宮と称したのが始まりである。社殿... ...続きを見る

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2014/11/25 23:12
奥の細道紀行 31. 市振〜滑川
奥の細道紀行 31. 市振〜滑川 ・ 市振  (2014. 10. 25.)  市振の街並みに入る所に「海道の松」という大木が聳えている。解説板に曰く、「昔の北陸道は、この海道の松から、海岸へ降りて、西からの旅人は、いよいよ寄せくる波におびえながら、天下の嶮親不知子不知を東へ越えることになったのである。また西へ上る旅人は10キロ余の浪間を、命がけでかいくぐり、海道の松にたどりついてようやくホッとし、市振の宿に入ったのである。・・・」  海道の松から街を西に少し行くと、芭蕉が宿泊した桔梗屋跡がある。「一つ家に遊女もねたり萩... ...続きを見る

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2014/11/22 23:20
奥の細道紀行 30. 能生〜親不知
奥の細道紀行 30. 能生〜親不知 ・ 能生  (2014. 10. 25.)  芭蕉は高田を出て加賀街道(北国街道)から五知国分寺・居多神社を参拝、名立に寄る予定だったが、紹介状が届いてないため、歩を進めて能生に夕刻到着した。「曾良随行日記」には『十一日快晴。巳ノ下剋、高田ヲ立。五知・居多ヲ拝。名立ハ状不届、直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。』と記している。居多神社は五知国分寺(前回No.29.記載)の隣にある延喜式神名帳にも名を残す古社で、越後一の宮である。  私たちは能生の街に入って先ず芭蕉が宿泊した旅館玉や... ...続きを見る

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2014/11/21 14:54
奥の細道紀行 29. 直江津〜高田
奥の細道紀行 29. 直江津〜高田 ・ 直江津  (2014. 10. 24.)  出雲崎に一泊した芭蕉は、七月五日(陽暦8月19日)柏崎を経て鉢崎に泊まり、翌六日、今崎(直江津)に到着した。柏崎では宿泊予定地でトラブル(前回No.28参照)があったが、直江津ではどうであったか。 「曽良随行日記」によると『聴信寺ヘ弥三郎状届。忌中ノ由ニテ強而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。・・・・』という次第で、前日ほどではなかったが、若干のトラブルがあったようである。 ... ...続きを見る

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2014/11/15 16:17
奥の細道紀行 28. 出雲崎〜柏崎
奥の細道紀行 28. 出雲崎〜柏崎 ・ 出雲崎  (2014. 9. 28.)  出雲崎は、芭蕉来遊当時は、佐渡ヶ島への渡船場として栄えた港町である。北国街道に沿って発展し、「妻入り」の家が、日本一の長さの3.6キロにも連なって、今も残っている。「うなぎの寝所」のような、間口が狭く奥行きの長い「妻入り」の構造は、江戸時代に越後一の人口密度を誇った繁栄の名残りである。  芭蕉と曾良は、鼠ヶ関を越えて以後、村上・新潟・弥彦と日数を重ねて出雲崎に入ったわけだが、「おくのほそ道」本文には『暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさ... ...続きを見る

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2014/10/08 21:21
奥の細道紀行 27. 新潟〜弥彦
奥の細道紀行 27. 新潟〜弥彦 ・ 新潟  (2014. 9. 27.)  新潟に入った芭蕉は、ちょうど港祭りの最中だったこともあって追込宿しかなく、大工源七の母の家に情けにより泊めてもらった。そして翌日には早々と新潟を出立している。何故か芭蕉は新潟の地にあまり良い印象を持たなかったようである。疲れている芭蕉は馬で行きたかっただろうが、『馬高ク、無用之由、源七指図ニテ、歩行ス』(曽良随行日記) と歩いて行った。  私たちは新潟市内で、芭蕉句碑「浮身塚」がある船江神社・「芭蕉翁蓑塚」がある崇現寺・芭蕉堂と蓑塚がある護国神... ...続きを見る

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2014/10/06 14:50
奥の細道紀行 26. 温海〜村上
奥の細道紀行 26. 温海〜村上 ・ 温海  (2014. 8. 30.)  不玉ら大勢の俳人に送られて酒田を立った芭蕉は、大山を経て温海に着いた。この間の海岸線は岩組が美しい所である。「曽良随行日記」には『三瀬ヨリ温海ヘ三リ半。此内、小波渡・大波渡・潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有』と記されている。私たちはこれらを車窓から眺めながら移動し、塩俵岩の所で小休止した。塩俵岩は割れ目が斜めに作用したもので、俵を積み重ねたように見えることからこの名がある。ここに海を背にして大きな芭蕉句碑がそそり立っている。     ... ...続きを見る

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2014/09/20 17:16
奥の細道紀行 25. 象潟
奥の細道紀行 25. 象潟 ・ 象潟  (2014. 8. 30.)  「奥の細道」の西の北限である象潟は、芭蕉たちが訪れたころは、『俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし』と本文にあるように、海上に浮かんでいた群島で、奥州の名峰鳥海山を背景に松の緑が点在する風景は、筆舌につくしがたいものだったようである。その後、文化元年(1804) の大地震で海底が隆起して陸地に変わってしまったが、田圃のそこここにある島々は松の緑を繁らせて、現在でも八十八潟、九十九島の面影を残している。  『先ず能因... ...続きを見る

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2014/09/17 17:29
奥の細道紀行 24. 鶴岡〜酒田
奥の細道紀行 24. 鶴岡〜酒田 ・ 鶴岡  (2014. 8. 29.)  芭蕉は一週間滞在した羽黒山を下って、酒井十四万石の城下町鶴岡に入り長山重行宅に三泊した。重行は身分も教養もある庄内藩士で、江戸在勤中に芭蕉庵を訪ねて入門した人である。  長山宅跡は住宅街の一角にあり、現在空き地になっていて「芭蕉滞留の地」碑とこの地で巻かれた歌仙発句の碑が建っている。「曽良随行日記」によれば、芭蕉は出羽三山詣での疲労が相当たまっていたらしく、この「めづらしや」四吟歌仙は巻かれるのに三日掛かっている。            「めづ... ...続きを見る

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2014/09/14 16:52
奥の細道紀行 23. 出羽三山
奥の細道紀行 23. 出羽三山 ・ 羽黒山  (2014. 7. 10.)  出羽三山というのは、羽黒山(436m)・月山(1980m)・湯殿山(1504m)の総称である。いま羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山の中腹には湯殿山神社がそれぞれ鎮座するが、月山・湯殿山は積雪により、冬季間参拝が不可能なため、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して、三神合祭殿と称している。 最上川を船で下った芭蕉は、羽黒山麓の手向村に近藤左吉(呂丸)を訪れ、その案内で別当代会覚に閲した。そして南谷の別院に8日間滞在し、『有難や雪をかほ... ...続きを見る

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2014/08/02 16:16
奥の細道紀行 22. 本合海〜最上川
奥の細道紀行 22. 本合海〜最上川 ・ 本合海  (2014. 7. 9.)  六月三日(陽暦7月19日)、好天に恵まれて新庄を立った芭蕉は、本合海より最上川下りの船客となり、清川で上陸、羽黒山麓に向かったのである。。本合海は、「義経記」によれば平泉へ逃れる義経主従が、羽黒山から清川へ出、最上川を船で遡り、上陸した場所である。芭蕉がそこから逆に船で下ったのは、義経を敬愛する芭蕉の「奥の細道」にかける念願だったのかも知れない。   本合海には「史跡芭蕉乗船之地」の標柱が建てられ、傍らに芭蕉・曾良の旅姿像がある(このページトッ... ...続きを見る

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2014/07/30 13:28
奥の細道紀行 21. 大石田〜新庄
奥の細道紀行 21. 大石田〜新庄 ・ 大石田  (2014. 7. 9.)  「おくのほそ道」に『最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ』とあるように、芭蕉は最上川を下るため船待ちしようとして立石寺から大石田に出て、高野一栄宅に三日間滞在した。芭蕉来訪当時の大石田は酒田へ下る川船の発着所(河港)として栄えた所で、米や紅花などが積み出しされた。  当時、俳諧の世界には芭蕉たちの新しい風が起こっていたが、まだこの辺りでは古い流れがあり、新旧の分かれ目にあたり、適当な指導者が居ないまま、踏み迷う地元の俳人にとって、芭蕉の来... ...続きを見る

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2014/07/28 11:56
奥の細道 みちのく編
 奥の細道を訪ねる旅もようやく前半を終了しましので、前回の「旅立ち編」に続いて、今回は須賀川から平泉までを「みちのく編」としてまとめてみました。ご覧いただければ幸いです。 ...続きを見る

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2014/06/25 14:21
奥の細道紀行 20. 医王寺〜国見
奥の細道紀行 20. 医王寺〜国見 ・ 医王寺  (2014. 6. 5.)  医王寺は、源義経が鎌倉に駆けつけるときに家臣となって従い、屋島と京堀川で討ち死にした佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺である。のち、兄頼朝に追われた義経は、平泉に逃れる途中、この寺に立ち寄ったといわれ、弁慶の笈などゆかりの品が宝物館に収納されている。  「おくのほそ道」で、『佐藤庄司が旧跡は・・・・飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ庄司が旧館なり』とあるように、芭蕉は継信・忠信の父佐藤庄司の館跡を尋ねて歩いた。芭蕉が「... ...続きを見る

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2014/06/22 16:09
奥の細道紀行 19. 安積山〜信夫文知摺石
奥の細道紀行 19. 安積山〜信夫文知摺石 ◎今回と次回 (No.19 & No.20) は、2月に予定していたが大雪のため中止になっていた行程で、奥の細道の順路としては「No.9 鐙摺〜武隈の松」 の前に遡ります.。 ...続きを見る

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2014/06/17 16:05
奥の細道紀行 18. 尾花沢〜立石寺
奥の細道紀行 18. 尾花沢〜立石寺   ・ 尾花沢  (2014. 5. 16.)   山刀伐峠を越えて尾花沢に入った芭蕉は鈴木清風を訪れ、そのもてなしを受けてくつろいだ。「おくのほそ道」に『尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども志卑しからず』と描かれている清風は、この地方の特産品である紅花の問屋で、芭蕉とは江戸で知り合った俳人である。  清風宅跡は現在駐車場になっているが、その東隣りに国道に面して芭蕉清風歴史資料館があり、館の傍らに芭蕉像が建っている。近くに養泉寺がある。尾花沢で十日間も滞在した芭蕉は、この寺... ...続きを見る

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2014/06/10 14:37
奥の細道紀行 17. 尿前の関〜山刀伐峠
奥の細道紀行 17. 尿前の関〜山刀伐峠 ・ 尿前の関  (2014. 5. 15.)  いよいよ芭蕉は進路を西に向けて出羽の国に向かう。「おくのほそ道」では『小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす』と記している。  小黒崎・みづの小島(美豆の小島)は、古今集・続古今集などで詠われた歌枕である。江合川の広い河原に向かって、古今集の歌碑が建っている。     「をぐろ崎 みつの小島の人ならば 都のつとに いざといはましを」 河原を眺めると向こう岸近くに小さな山があるが、流れは一向に見えない... ...続きを見る

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2014/06/03 15:13
奥の細道紀行 16. 平泉〜岩出山
奥の細道紀行 16. 平泉〜岩出山 ・ 平泉  (続き)  中尊寺では先ず金色堂を見物した。私はどうゆう訳か今まで機会がなく、この歳になって平泉は初めてである。この金色堂を今まで見たことがなかったのだ。今回の奥の細道巡りを始めた動機も、金色堂を見たいことが第一であった。それだけに少年のような期待感でこの瞬間を迎えた。  期待以上に素晴らしいものだった。全体が金箔に覆われて、中央には阿弥陀三尊が安置され、周囲は蒔絵や螺鈿、彫金で埋め尽くされており、まさに燦然と輝く平安芸術の粋に只々圧倒されるばかりである。金色堂全体が密封され... ...続きを見る

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2014/05/30 14:13
奥の細道紀行 15. 一関〜平泉
奥の細道紀行 15. 一関〜平泉 ・ 一関  (2014. 5. 14.)  芭蕉が登米を発って一関に入った日は、ひどい大雨だった。「曽良随行日記」には、『十二日曇。戸今を立。・・・・・一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス』とある。 一関市内の「かっぱ崖」には幾つかの標識が建っている。このあたりで芭蕉は合羽も染み透るほどの豪雨に降られたらしい。 芭蕉は、地主町の磐井橋近くにあった金森家に二泊して、ここから平泉に行き中尊寺などを見物した。現在、磐井橋のそばに「二夜庵跡」の標識がある。そこには隣接した形で二軒の金森家があったが... ...続きを見る

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2014/05/27 22:39
奥の細道紀行 14. 石巻〜登米
奥の細道紀行 14. 石巻〜登米 ・ 石巻  (2014. 4. 17〜18.)  松島を発って石巻の日和山に向かう途中、石巻湾に面した東松島市、石巻市の津波被災地を通り、大震災の凄さ、恐ろしさを目の当たりにした。震災前は立派な市街地だった地区が、今は瓦礫などは整理されて一面の更地に化し、一階が破壊されたままの一軒家や柱だけになった寺がポツン立っていたりする。そのような中に、犠牲者を追悼・鎮魂するためお地蔵さんが立てられていた。バスを降り、線香を(防災のため火をつけないで)あげてお祈りしてきたが、しばらく涙がこぼれて止まら... ...続きを見る

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2014/05/12 23:02
奥の細道紀行 13. 松島、瑞巌寺
奥の細道紀行 13. 松島、瑞巌寺 ・ 松島  (2014. 4. 16〜17.)  「おくのほそ道」の冒頭の一節で、『松島の月まづ心にかかりて』と述べているように、芭蕉は深い期待をもって松島を訪れた。そして『そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹ばふ・・・・その気色えう然として、美人の顔を粧ふ』と松島の風景を絶賛した名文を記しているが、あまりの感動で俳句を詠めなかったか、この章では曽良の句だけを載せている。  私たちも塩釜から遊覧船に乗って松島湾を巡り、鐘島(下の写真)・千貫島・双子島などの島々を見て松島に渡った。芭... ...続きを見る

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2014/05/09 21:10
奥の細道紀行 12. 塩竈
奥の細道紀行 12. 塩竈 ・ 塩竈  (2014. 4. 16.)  塩竈神社は陸奥国一宮として古くから崇敬され、仙台藩主伊達家によって再興整備されてきた。芭蕉はここを詣でて、「おくのほそ道」に『かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ・・・・いと尊けれ』と崇敬と讃嘆の気持ちを記している。  「陸奥国一宮」の扁額を掲げた鳥居をくぐると、長く急な石段がある。これが表参道で石段の数は202段もある。「おくのほそ道」に『石の階九仞に重なり』とあるのがこの急坂である。 途中で数回休みながら登りきると、ちょう... ...続きを見る

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2014/05/08 11:29
奥の細道紀行 11. 多賀城〜末の松山
奥の細道紀行 11. 多賀城〜末の松山 ・ 壷碑(つぼのいしぶみ)・多賀城跡  (2014. 3. 9.)  多賀城外郭南門跡から公園に入り丘を登ってゆくと、四面が格子窓の鞘堂がある。この鞘堂に納められて立っているのが「壷碑」と云われた多賀城碑である。この壷碑は、神亀元年(724)創建、日本三古碑の一つに挙げられる古碑で、古くから歌枕として知られるものだ。芭蕉は壷碑を訪れて、その感激を「おくのほそ道」に次のように記している。    『ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。     行脚の一徳、存命の喜び、羇... ...続きを見る

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2014/03/31 14:35
奥の細道紀行 10. 笠島〜仙台
奥の細道紀行 10. 笠島〜仙台 ・ 笠島  (2014. 3. 8.)  「曽良随行日記」によると、陰暦5月4日 飯坂を出発した芭蕉一行は、伊達の大木戸・鐙摺・甲冑堂を過ぎて白石に一泊し、4日に岩沼で武隈の松を見物したのち、笠島へ左折する道を通り過ぎてしまい笠島を見られず、夕刻仙台に到着しているから、「おくのほそ道」本文と実際の行程との間には大きな差異があることになる。  私の読んだ本の解説によると、「おくのほそ道」で「笠島」の章を「武隈の松」の前に持ってきたのは、『道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやりて過... ...続きを見る

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2014/03/29 14:48

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